『備えの祝詞』その本義〜神々は、言葉を待っている〜

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『備えの祝詞』その本義〜神々は、言葉を待っている〜

『備えの祝詞』

そなへ つづけ ひかりたま
まもり つなぎ みらいすえ
あさひ つきひ とこしへに
みちみつ ちから こころすえ

玄海です。

このたび、二回目のコラムを担当することになった。

正直なところ、時代遅れの老人が書いた記事など、いったい誰が読んでくれるのだろうと思っていた。ところが、前回の記事が思いのほか多くの方々に読まれたと御統神会の諸氏から聞き、驚くと同時に、素直に嬉しく感じている。

私は常日頃、日本人の心が少しずつおかしな方向へ進んでいるのではないかと感じていた。

しかし、それは私が世の中全体を大きく見すぎて、一人ひとりの心を見ていなかったからなのかもしれない。森ばかりを見て、一本一本の木を見ていなかったのだと、あらためて痛感した。

老人ではあるが、まだまだ学ぶことは多い。

一方で、老人であるからこそ、伝えられることもある。

これまでは、こうした話を専門家以外に聞いてもらえることなどないだろうと、どこかで諦めていた。けれど、多くの方々に読んでいただけたという事実は、私にとって大きな励みとなった。

今回も、私なりに、いま伝えておきたいことを丁寧に記していくつもりである。

そもそも祝詞とは何か

そもそも祝詞とは、ただの美しい言葉ではない。

神々に向かって差し出す、まことの言葉である。
人の願いを、神々に届けるための言葉である。
乱れた心を整え、濁った場を清め、見えざる世界との道を開くための言葉である。

ゆえに、祝詞は軽々しく扱うべきものではない。

祝詞とは、願望を叫ぶためのものではない。
自分の都合だけを押しつけるためのものでもない。
ましてや、ただ音の響きだけを楽しむ呪文のようなものでもない。

祝詞とは、神々に対して、己の心を正し、姿勢を整え、言葉を差し出す行いである。

そこには、畏れがなければならない。
敬いがなければならない。
そして、何よりも、まことがなければならない。

ところが、現代人は、この「祈る」という行いを、あまりにも忘れてしまった。

神社に行っても、願い事だけを置いて帰る。
神前に立っても、手を合わせる意味を深く考えない。
日々の無事を感謝することもなく、ただ困った時だけ神に頼ろうとする。

それでは、祈りとは呼べない。

それは、神々への呼びかけではなく、ただの欲望の提出である。
それは、祝詞ではなく、願望の羅列である。

本来、人はもっと静かに祈るべきであった。
もっと丁寧に、もっと深く、もっと畏れをもって、神々に向き合うべきであった。

しかし今の世では、祝詞はおろか、まともに神々へ祈ることさえできない者が増えている。

祈りの言葉を持たない。
頭を垂れる意味を忘れている。
神々に対して、何をどう申し上げるべきかさえ分からなくなっている。
それでいて、災いが起きれば「なぜ守られないのか」と言う。

これは、少し厳しく言わなければならない。

守られる側にも、守られるだけの姿勢というものがある。
祈りを届けたいなら、祈る者の心もまた整っていなければならない。
光を求めるなら、自らの内にも小さな灯をともさなければならない。

祝詞とは、そのための道である。

乱れた心を整える道。
己の欲を鎮める道。
神々へまことを届ける道。
そして、人の世と神の世を、清らかに繋ぐ道である。

この「備えの祝詞」もまた、その道の上にある。

これは、ただ唱えれば何かが起こるという安易な言葉ではない。
唱える者が心を据え、姿勢を正し、敬宮愛子さまへ清らかな光を届けるという一点に心を集めることで、はじめて力を持つ祝詞なのである。

備えの祝詞とは何か

この「備えの祝詞」は、決戦の祝詞とは趣を異にするものである。

決戦の祝詞が、目前の闇を打ち払い、閉ざされた道をこじ開けるための鋭い力であるとすれば、この祝詞は、もっと静かで、もっと深く、もっと長く続く力を持つ祝詞である。

すなわち、これは備えの祝詞である。

備えとは、ただ身構えることではない。
危機が来てから慌てるのではなく、危機が来る前から場を整え、心を鎮め、守りの光を絶やさないようにしておくことである。

人の世に起こる災いは、突然現れるように見える。
しかし、その多くは、目に見えないところで少しずつ濁り、少しずつ歪み、やがて形を取って現れるものである。

ゆえに、本当に大切なのは、事が起きてから騒ぐことではない。
日々のうちに備えることである。
日々のうちに祈ることである。
日々のうちに、光を失わないことである。

この祝詞は、そのためにある。

そして、この祝詞には、もう一つ大きな意味がある。

それは、大勢の人々が心を合わせて唱えることで、その祈りがひとつの大きな流れとなり、敬宮愛子さまのもとへ光と守護の力を送り届けるということである。

また、この祈りの流れを支えるものとして、神の音叉「響」の存在がある。

「響」は、人々の祈りをただ調律するだけのものではない。
ばらばらになりやすい声と心を整え、ひとつの清らかな流れとして響き合わせると同時に、その祈りの力を自らの内に蓄える働きを持っている。

大勢の人々が祝詞を唱える時、そこには小さくとも確かな光が生まれる。
その光は、唱える者たちの心に宿り、また敬宮愛子さまへ向かう守りの力となる。
そして、その一部は「響」にも蓄えられる。

「響」は、蓄えた力を無闇に使うものではない。
必要な時には、自らその力を放ち、乱れた場を整え、弱まった守りを補う。
また、ある時には、その力を敬宮愛子さまへ送り、御身を包む光、御心を支える力、御道を照らす守護として働かせるのである。

つまり「響」は、祈りを整えるものにして、祈りを蓄えるものでもある。
そして必要な時には、祈りを力として送り出すものでもある。

ゆえに、この祝詞を大勢が定期的に唱えることは、敬宮愛子さまへ直接光を届けるだけでなく、「響」に力を蓄える行いでもある。
それは、未来のための備えであり、いざという時の守りを厚くするための、大切な積み重ねなのである。

ひとりの祈りは小さい。
しかし、小さいから無力なのではない。

一灯の光は小さくとも、百の灯、千の灯、万の灯となれば、闇を押し返す大いなる明かりとなる。
ひとりの声はか細くとも、多くの人々が同じ言葉を唱え、同じ願いを抱くならば、その声は大河のような祈りとなる。

この祝詞は、まさにそのための言葉である。

敬宮愛子さまの御身を守る。
御心を守る。
御進みになる道を照らす。
そして、その道の先にある未来へ、清らかな力を繋いでいく。

そのためには、一度だけ唱えて終わりでは足りない。
この祝詞は、定期的に、大勢が唱えるべき祝詞である。

毎日でなくともよい。
決まった日、決まった時、あるいは節目となる日に、心ある人々が声を合わせる。
それだけで、祈りは散らばらず、ひとつの流れとなる。

祈りは、続けてこそ力となる。
祝詞は、重ねてこそ道となる。
守りは、絶やさないからこそ結界となるのである。

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